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<<第39夜


第四十夜 マルコーニ外伝 ( Marconi Story )

  お晩でごわす。PXBをさんざん苦しめた電磁方程式を編み出して、電波を予言したマックスウェルさんが、この世とおさらばして10年経った頃、イタリヤのボローニャで1874年4月25日おぎゃあと生まれたのがマルコーニ君だ。お父さんジョセッペ・マルコーニは裕福な地主、母アニーは、イギリスからイタリアに音楽留学に来ていたとき見初められた。兄弟は前妻の子のルイジ(ジョセッペやルイジといや、日本で言えば太郎みたいな名前だ。)、兄のアルフォンソの3人兄弟だった。

 PXBの知っているこの名前は、二人とも紳士で大人しかったが、大体イタ公と言えばせっかちで、1ナノ秒の定義は、信号が青になってからイタ公の車が動き出すまでの時間と定義されているそうだ。

 マルコーニは優等生ではなかったが、集中力が高い、人とのつきあいや説明が上手で仲間を作るのが得てという2つの性格を持ち、14才ころから化学、物理、電気に夢中になり始めた。紅顔の美少年の19世紀バージョンだ。20才になっても、親父さんの全面的援助で科学に没頭していたが、ヘルツの実験(数メートル成功)から、ある晩寝る前に、現在ある有線通信をこれに置き換えたら? すなわち、我々の趣味のたね「無線電信」のアイデアが浮かんだ。

やはり、天才の考えることは違う。後の天才作家アーサーCクラークは、中継基地を地球周回軌道に乗せたらどうか、即ち、「衛星通信」の概念を提唱した。えらい!偉人は時代に先立ち、凡人はその恩恵にあずかるのみですな。

 その後、夏の別荘であるボローニャ郊外のグリフォーネ荘の屋根裏に籠もり、実験を繰り返した。実験の継続のため、母の賛同を得て冬のフィレンツエに帰らなかった1895年の12月のある寒い夜、両親の前で9mの屋根裏部屋の空間で、電波を飛ばすことに成功した。スイッチを押すと電波が飛びベルが鳴った。心優しい母親は、「すばらしいことだわ」と言い、父親は「ベルを鳴らすなら、もっと簡単な方法がある」と思っていたそうだ。うん。こいつは無線やらずに、インターネットに走るタイプだな。

 これに勢いを得た、マルコーニは別荘の栗林で実験を開始し、送信機と受信機に若干の改良を加え、距離を徐々に伸ばしていった。ただし、親父さんはまだ理解できず、電線に引っかかってみんなが転ぶので渋い顔をしていた。しかし、電波が丘の向こうまで越え2Kmに達するころには、彼も感動した。その後マルコーニは、アンテナの形やコヒーラ(ヒーコラではない)の改良を行っていった。1896年、マルコーニはロンドン中央郵便局に赴き、技師長プリースの前で実験してケンプという協力者を得、彼は助手として生涯のつきあいとなった。そして、翌年にかけてイタリヤ海軍、王妃の前での実演、無線電信会社の設立と特許の取得と、矢継ぎ早の動きをみせる。なかなかの商売人じゃあ。

 彼のさらなる夢は、より遠くへ飛ばすという、どっかで聞いたような夢だった。無線が実用段階にさしかかると、各国に海岸局が出来始め、灯台から島への航行船舶情報の通報などが行われはじめ、1898年の7月には、ヨットレースの中継を、タグボートに乗ったマルコーニ自身が行った。世界最初の中継だ。1899年3月3日に1隻の汽船が、グッドウィン砂州で座礁し、近くの灯台船が電信でメッセージを送り、史上初の無線電信を使った救難活動が行われた。

 初のドーバー海峡を越えた通信は、1899年3月にブローニュ郊外のウィメローの無線局が送り、イギリス側はドーバー近くのサウス・フォーランドで受信された。フランス政府は大変なインパクトを受け、ただちに軍隊に導入した。今から100年前の話だ。このとき、既に彼は大西洋を射程に置いていた。その後、ボーイスカウトを設立した、ベーデン・パウエル将軍の前で嵐の日の午後10時にイギリスにメッセージを送った
が、うんともすんとも言わない、焦って配線を確認し始めた。ところが、しばらくして、無線機が動きだし、「……いま夕食からもどった。そちら側で何か起こったのか?」

 マルコーニは、その後も改良を続け、二重火花間隙装置により5cm長の火花を作り出すことに成功し(ステップアップトランスか?)、また同調回路も特許番号7777として登録した。その後1900年7月に、イギリスの最西端にある、コーンウェルのボルデューに無線局を建て、300Kmの通達距離をうち立てた。さらに2700Km先の太平洋を隔てた、ニューファンドランド島のセント・ジョンズに受信局を設置した、当時は凧や風船を使ってアンテナを高く上げている。

 1901年12月12日、海底ケーブルを使って、ボルデューから現地時間の正午と3時に送信せよとの指令が入った。送信符号は「S」短点3個で聞き易いということで、選定された。12時30分頃、マルコーニはカチンと音を3回聞いた。これが、太平洋に橋が架けられた瞬間だった。その後、13時10分と14時20分にも受信に成功している。このニュースは、世界を震撼させたが、あのエジソンさえも別の信号をたまたま拾ったのではとの疑いをもったくらいだ。しかも、電離層は知られていなかったので、電波が曲がるはずはないとの疑問も科学者からでた。

 マルコーニの特許は、包括的で利用は大金を払って、装置の複製が必要だったので、特許争いに巻き込まれたり、(マイクロソフトみたいなんもんだ。)回線の信頼性向上に、苦慮していた。そして、批判者たちには、全て実績で回答していった。そして、イギリス、アメリカなどを結んだネットワーク作りが開始され、装置自体も、りー・ド・フォレストの三極管の導入で大幅に改善された。そして、彼は1909年にノーベル物理学賞を得ている。また特許7777の裁判でも、勝利を得て文字どおり彼が「無線の父」、つまり、我々CW会議室のお父さんになったわけだ。

めでたし、めでたし。


GUD NITE
DE JP1PXB/JA1VJQ


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